透明になって

先週の日曜天国を聞いてなかったと思って、1週間遅れで再生したら、安住さんのオープニングトークがどうも共感できてグッとくる話で、ホッとするような気持ちになった。再三思うけど、確かに「共感」それが全てじゃないけれど、時代が弱っている昨今は、自分とタイプの違う人が360度全方位にいる世の中はやっぱり生きづらい。生きづらい。そう感じたのはいつからなんだろうと、自分史を遡ってみると、いつも同じ結論に辿りつく。答えは10歳。8歳か10歳。埼玉までの話はまあまあ普通だった。長野に入ってから人生ちょっとずつおかしくなっていった。そんな時期からの生きづらいだから、場所を変えようが国を変えようが、簡単には変わらない気がする。というか独力で出来ることには限界もあるし、出会いまでコントロールはできないし、他人からの干渉にもそう簡単に左右されないくらい、深く自分と向き合いすぎている。歳をとる程に、他人は信用も信頼もできなくなっている。こんな人生を今後も続けていく必要はあるんだろうか。

 

本当の自分を晒して生きられないのは、どの仕事もそれなりにそうではあると思う。そもそも仕事を背負って、誰かと一緒になにかやる、人前に立つっていうのはそういうことだから。だけれど、そうした取り繕いの自分の本心や本音とのギャップ、辻褄合わせはどこで行うんだろう。いろんな人に考えすぎだとか、自分の悩みを話してもピンとこない顔をされ続けるのは、世の中の人はそんなに内省的な時間や、自分の人生に向き合う時間にそれほどリソースを割いていないんじゃないか、っていう結論になってきた。そんなことを今更になって気づいた。他人といれば思考ではなくて反応で済むから。ひとりで悶々と考える時間がいいのか悪いのかわからない。

 

気になることが多いのかもしれない。シンプルに理解できない人も多い。職場や住む環境を転々と変えてると、常識ってものがなんなのかもわからなくなってくる。前の環境では、信じられない事態が次の現場では平気で起こっているし誰もツッコミすらしない。逆も然り。理解に苦しむんだけど、もう文化や発展の違いとして受け入れるしかない。

 

本心とのギャップの話に戻るけど、日常生活において他人とうまくやれるような性格の人は、職場や外側の自分とさほどにギャップがないのかもしれない。対して日常生活に難ありの性格になってくると、本心とのギャップがすごいので、大人になって理性的に振る舞うことを求められれば求められる程、立ち振る舞いと本心の間に深い溝が生まれる。表面的な振る舞いと本心がどんどん乖離していくから、気づいたら自分でも収集がつかなくなって、頭で処理できなくなってただただ夜ひとりで泣くしかない。だってもう自分が何で泣いているのかすらよくわからないから人に話せない。ただ根本的に求めているものはひとつしかないのにそれはいつだって叶わない。でも叶わなくても形にならなくても、その方がいいんじゃないかとすら思う様になってきた。それを失った時に、落ちる絶望はとても深いし、もう二度と戻らない何かを失う気もしている。

 

最近いつまで生きるんだろうか、ってよく考える。同じ風景の繰り返しに、もううんざりしてるのに。