すずらん

辛くて苦しくて仕方ない時は、惨めでかっこ悪くて無様でも、「助けてください」って言う辛い、悲しい、助けて欲しいって。生きていること。って言ったってここぞという時の人間柄というのか、忙しいとかどうでもいいとか自分の人生に関与しないとか、相手にとってどれくらい自分がなんでもない存在だったかを突きつけられるばかりで、信じていた人?それは幻想、信頼はガラガラ崩れるばかりだし、些細な一言に言葉を失うくらい幻滅したり、ねぇ馬鹿にしてるの?人間嫌いになるばかり、それでいてもヘラヘラ笑えるようになって、「しょうがない」とか「大丈夫」とか大人の使う言葉、使うようになって、私は随分嘘くさくなったんだと思う。生きていることそのものが嘘くさい。全部嘘の癖が抜けない。いったい今日の自分の何パーセントが、本当の私だったんだろう。ってふと思う。けどきっとどれもが、ただ正解を演じる話で、そんなことしてまで生きている必要ってあるんだろかって毎日考える。

 

ちゃんと向き合うほどに信じられる人ってどんどん減ってしまって、そういった局面に立たせる自分が悪いんだろうけど、バランスよく人間関係が成り立っていないことに気がつくと、急に冷めてしまって、むしろ壊したくなって、存在から忘れ去ろうとしてみる。こっちから連絡しなきゃ連絡なんてこないんだから。なんだか無理に頑張っていても仕方ないんだ何事も。

 

誰かがかけてくれた言葉や行動で本当に嬉しかったことも、ちゃんと見てくれてる人も、失いたくないがあまりに遠く感じたりもして、結局わがまま言い出したらみんな離れていくわけで、条件付きの世界はずっとずっと条件つきなんだ。言葉も態度もうまくチューニングして、うまいこと。バレてなかったら上手に生きれてる賞だろか。

 

生きていることにはずっと疲れていて、生きることに対してずっと壊れていて、痛み苦しみを感じない為には無関心になるしかなくて、興味がないって思ったらいろんなことに興味が失せてきて、何も感じなくなると何かを作り出すことに集中できる。これの繰り返しだ。

 

こんなことしてまで生きてる価値あるの?

諦めること

日曜日の夜が1番眠れない。正直結構精神的に辛い。適当な自分や前向きな自分や平気な自分の引き出しを引き出して、なんとか誤魔化してはみるけれど、やっぱり辛いものは辛い。この状況が続いたら、仕事もこの生活も長くは続かない気がしている。転職期間も辛かったし、いろんな意味でギリギリだったから、とりあえずまた転職って問答にはならないし、やるしかないのはわかっているけれど辛い。とにかくこのままじゃまずい、ってことはわかっているんだけどたぶんそう簡単に解決しないだろう。


場所を変えて、仕事を変えて、解決したこともあったけれど、解決しないこともあって、結局ずぅっと行き詰まっていて、ずっとしんどい。向き合うことを辞めて、もっと根本的にいろんなことを諦める必要があるんじゃないかと思う。どうにかしようとしているから苦悩になるし諦められないから生きてることは切ない。人生を終わりにできないのは、どこかで踏み切れないからなんだ。


頑張ります努力します成長します、すみません、ありがとうございます、仰っる通りです。言えば言うほど追い詰められる。正論がいつだって正しい意味を持つかってったら違うのに、声の大きな人や前向きな人がいつだって有利な人生ゲームだ。


行き詰まっていて、でももう何が自分を救ってくれるかわからないんだ。ただこうやって何か形にするくらいしか、自己再生できないし、誰かになんか言われるのも、ただ疎外感と劣等感に追い込まれていくだけ。


いつまで続くんだろうか。こんな日々が。

透明になって

先週の日曜天国を聞いてなかったと思って、1週間遅れで再生したら、安住さんのオープニングトークがどうも共感できてグッとくる話で、ホッとするような気持ちになった。再三思うけど、確かに「共感」それが全てじゃないけれど、時代が弱っている昨今は、自分とタイプの違う人が360度全方位にいる世の中はやっぱり生きづらい。生きづらい。そう感じたのはいつからなんだろうと、自分史を遡ってみると、いつも同じ結論に辿りつく。答えは10歳。8歳か10歳。埼玉までの話はまあまあ普通だった。長野に入ってから人生ちょっとずつおかしくなっていった。そんな時期からの生きづらいだから、場所を変えようが国を変えようが、簡単には変わらない気がする。というか独力で出来ることには限界もあるし、出会いまでコントロールはできないし、他人からの干渉にもそう簡単に左右されないくらい、深く自分と向き合いすぎている。歳をとる程に、他人は信用も信頼もできなくなっている。こんな人生を今後も続けていく必要はあるんだろうか。

 

本当の自分を晒して生きられないのは、どの仕事もそれなりにそうではあると思う。そもそも仕事を背負って、誰かと一緒になにかやる、人前に立つっていうのはそういうことだから。だけれど、そうした取り繕いの自分の本心や本音とのギャップ、辻褄合わせはどこで行うんだろう。いろんな人に考えすぎだとか、自分の悩みを話してもピンとこない顔をされ続けるのは、世の中の人はそんなに内省的な時間や、自分の人生に向き合う時間にそれほどリソースを割いていないんじゃないか、っていう結論になってきた。そんなことを今更になって気づいた。他人といれば思考ではなくて反応で済むから。ひとりで悶々と考える時間がいいのか悪いのかわからない。

 

気になることが多いのかもしれない。シンプルに理解できない人も多い。職場や住む環境を転々と変えてると、常識ってものがなんなのかもわからなくなってくる。前の環境では、信じられない事態が次の現場では平気で起こっているし誰もツッコミすらしない。逆も然り。理解に苦しむんだけど、もう文化や発展の違いとして受け入れるしかない。

 

本心とのギャップの話に戻るけど、日常生活において他人とうまくやれるような性格の人は、職場や外側の自分とさほどにギャップがないのかもしれない。対して日常生活に難ありの性格になってくると、本心とのギャップがすごいので、大人になって理性的に振る舞うことを求められれば求められる程、立ち振る舞いと本心の間に深い溝が生まれる。表面的な振る舞いと本心がどんどん乖離していくから、気づいたら自分でも収集がつかなくなって、頭で処理できなくなってただただ夜ひとりで泣くしかない。だってもう自分が何で泣いているのかすらよくわからないから人に話せない。ただ根本的に求めているものはひとつしかないのにそれはいつだって叶わない。でも叶わなくても形にならなくても、その方がいいんじゃないかとすら思う様になってきた。それを失った時に、落ちる絶望はとても深いし、もう二度と戻らない何かを失う気もしている。

 

最近いつまで生きるんだろうか、ってよく考える。同じ風景の繰り返しに、もううんざりしてるのに。

別の星の同じ座標に立っている人に出逢いたい

20歳を過ぎたあたりから、初めて会った人なのに初めてじゃない気がする人に稀に出会うようになった。稀、どれくらいの頻度だろう。出会った時は全く友達になると思わなかった〜って人と今では大の仲良し、っていう存在は私の中には皆無である(たぶん)。他人に対する感情は、ほどんど「好き」か、「興味がない」の二択しかない。最初からすきか、そうじゃないか。最初から仲良くなれるか、そうじゃないか。

 


同じ様な界隈をうろうろしてたり、もっとシンプルに仕事だったり、物理的に近い距離だったり、すれば否応なくその人のことに関心が向いたりするし、コミュニケーションの中で人間関係は育つのも確かだけど、ファーストインパクトの強い人には結局勝らない。前付き合った人もその前付き合った人も、ほぼ初対面、会って2秒で見抜いてきた。「君、誰?」って。現実に。

 


初めてなのに前から知っていた様な感覚。たぶん遺伝子的に近いか、生い立ちが近いか、それ以外の何かの共通項なのか。わからないけど。最後までその理由がわからない時もあるけど、とにかく一緒にいることに何の違和感のない人とか。


距離が離れてしまったり、生活の中でなかなか会わない存在になっても、繋がっていたい人には折りを見て連絡してる。意味も文脈もなくても、連絡したりする。SNSだって本当に興味がある人しか観てないし、興味がある人のことは結構な頻度で考えているので、連絡した時に「久しぶり!」とかって言われると割と落ち込む。(逆も然りだけど。)いや、私にとっては全然久しぶりじゃないんだけどな。って。SNSならわかりやすく、いつも観てあーだこーだ思ってる。現実の生活がひとりでいる時間が多いことの特権か。


自分の中で明らかにピンと来る人に対しては、どうも人生の答え合わせみたいになってくるのか、単純にとても興味があるから、できるだけ接点を持って知ろうとする。結構だから友達でも恋愛でも積極的なのかもしれない、駆け引きとか言ってる地点でたぶん、それは後付けの恋愛っぽい。最初は単純な興味、圧倒的に惹きつけられるなにか。会いに行って会話して、わからなかった挙動や行間、言葉や仕草は映像記憶して何度も何度も反芻して考える。相手の立場とか年齢とかいろんなことを踏まえて考えたりして。作品だともっとわかりやすくて、もっと宇宙。全く知らない国の知らないアーティストの作品でも、ピンと来るものはピンと来る。だから割とひとりで動けるのもある。


自分はそうやって、第六感なのかサードアイなのか(いや、ちょっとしたただの勘)わかんないけど、そういうところがめちゃくちゃハッキリしている時があるので、普通の人っぽく、自然な感じにできない時も多い。自分と向き合うことを真面目にし過ぎて来た人生なのか、あるいは失敗が多すぎた人生なのかわからないけど、他人の入る隙もなく自分の事は自分で把握しすぎてるので、本当に悩み抱えている時は誰の言葉もピンと来なくて返って孤独が助長されたりする。それでも、どんなに完璧に自分を理解していたとしても、自分以外の誰かがしてくれる行動は、自分では作れない。ずっとこれを、相手にも思って来た。投影。自分がして欲しかったことを、たぶん外側に立てた自分は誰かにしているだけ。


ご時世なのか年齢的なものか、友達と思っていた人とはどんどん疎遠になっていくことの方が多い。自分から連絡しなくなると向こうからは連絡が来ないって人の方が多くて、ひとりよがりなんだなと実感する。だから情けなくなってだんだん連絡しなくなる。誘われたら行くけどっていう人ばかりで、そんな受動的に生きていて忙しい人達はどれだけ周りの人に愛されているんだろうと思うと純粋に羨ましくなる。


自分理解度があがるにつれて、ああわかってもらえてないなぁ、わかってもらえないよなぁとどこかで思ってしまうから、喋る内容もなんとなく自分でチューニングして、どっちかっていうと聞き手に回って、インタビュアー的な感じでコミュニケーション取ることが多くなった。この姿勢でいると、自分のことを聞いてくる人ってとても少なくて、みんな自分の話をよく話すから、やっぱりわかってもらえない。余計なお世話だけど、私と話す時に聞き手に回ってくれる聞き上手な友達にも、ちゃんと喋らせるようにしてる。人の話聞くのも楽しいけど、バランスがとれないと帰った後にちょっとだけ虚しい気持ちになるから。コミュニケーションはキャッチボールじゃないと。


ここまで書いた私の文章も、意味がわかるって人と支離滅裂って人とハッキリわかれる。最近はすごいわかるよって言ってくれる側の人がほとんどいなくなっちゃったから、ただの公開自問自答だな。11歳から始まったこの文章にして書く癖は、歳重ねるほどに、ちゃんと文章になって来ている感じしているから、いつかコラムでもエッセイでも書いて世に出せる日が来るといいな。

いろんなことを自己完結させる。出逢えても明日がないみたいに動けなくもなってきた。生きることは器用にも不器用にも。ちゃんとした大人でいるっていろんなことを失うんだ。

晩年

昔のことを思い出す時間が増えた。過去を後悔することが増えた。なんでこうなっちゃったんだろうって思うことが増えた。目の前の日常になんだかこうやって過ぎていくのかぁって、退屈な映画を我慢して観るような感情になること、そんな日々の繰り返し。

 

転職活動は辛かった。転職のつなぎのバイトは、あんまりいい環境じゃなかった。でも、仕事が気楽だったってことと、飲食の仕事はやっぱり楽しかった。学生の時、同じ居酒屋のチェーン店でバイトしてたのに、その頃よりもずっと楽しかった。また会社員になって、1日10時間とかパソコンに向かう生活になると思うと憂鬱で仕方ない。憂鬱で憂鬱で仕方ない。飲食店でいろんな人の接客をし、いろんな事情で働いている人たちと働くのが楽しかった。

 

努力をして苦労をして、なんとか勝ちとった仕事なのに、どうしてこうも憂鬱なのか。たぶん何より、人間関係を一からまた培うことが億劫で仕方ないから。その人の次の発言が推測できるまで、またコミュニケーションをとるのが億劫で仕方ないから。行ったら頑張るんだけど。なんだかんだ仕事はできるタイプだけど。なんだかなぁもう少しダラダラ東京にいてもよかった気がする。コロナになってからの世の中は、時間の流れがおかしすぎて、いろんなものがまだ止まっているような気がする。或いは擦っては消え、擦っては消えるようなしけたマッチみたいな。たまにちゃんと火がついて、いい感じってなるんだけど、それが続かないというか。都心に出ればもっとスピード感はあるんだけど、継続した人間関係が続かなくなってる。自分から会いに行かなくなったら、声をかけなくなったら、もう会えなくなる人間ってなんなんだろう、って再三思う。会おうよ、話そうよって言って3回誘って全部予定が合わなくてリスケしてくれない友達はもう友達じゃないんじゃないか、と思う。(少なからず相手にとって自分との時間ってそれくらいの優先順位。なんだなってさ)とか言う話を誰かにすると、どうやらみんな仕事にも関係ない、恋人でもない、自分の活動に関わっていない友達に対しての付き合い方ってどうもそうなっていくらしい。定期的に会える友達には定期的に会いたくて、その時話てた話も自分の人生のひとつみたいに数えて、またその続きが聞きたいって思ってる自分みたいな人ってどうも変わってるのかもしれない。生涯に自分と関わる人間なんてたかが知れてるのだから、狭くでも広くでも深く興味のある人にはやっぱり会って話がしたい。自分が好きな人に関しては結構頑張るけど、段々それも頑張れなくなってきて、というか虚無、そんな誘っても誘っても断られるのって、ひとりよがりだし、自分の存在なんてどうでもいい人にエネルギーを使うのも疲れてくる。段々と。必要とされていないなーと思うと、結局仕事するしかなくなって、あるいは自分ひとりでできる活動に精を出すしかなくなって、ずっと仕事とバイトと活動を繰り返す。とはいえ、わかるけど。みんなそれぞれ状況があるから、ついたり離れたりはわかるんだけどね。長年連絡をとっていなくても、つい昨日のことのように仲良く話せる友達が本当の友達なんだって。

 

恋愛はできなくなった。大好きだった人に捨てられたら1年半分記憶喪失になったから、それを経たらそこまでのリスクを負って、恋愛したいと思えなくなった。あんま好きじゃない人と付き合うって言うのは、ほとんどしたことが無いけど、傷つかない恋愛とかせめても記憶喪失にならない恋愛ってそういうことなんだろうか。誰かと一緒に生きている時間の方がすき、人間もやっぱ所詮動物でひとりじゃ生きていかれないんだろう。どこかに安心して帰って来られる場所が欲しい。自分を受け入れてくれる人や理解しようとしてくれる人、側にいてくれる人が欲しい。だってひとりで生きている時間よりたぶんずっと幸せだった。要らんこと考えなくていいし、認めてくれる人がいるっていうのは、自分が生きていていいみたいな感覚になるんだ。でも誰かといる自分をしすぎると自分を見失う。自分と向き合う時間が経って、思考よりも反応が多くなるから。いろいろ考えなくなる。でもたぶん、人間その方が楽なんだって思う。楽。だんだん楽を求めるようになる。でもそれを続けたらきっと、何も書けなくなるし描けなくなる。創作に孤独が必要なのは絶対だと思う。

 

今年も辛いことはいっぱいあって、ずっと希死念慮がすごかった。希死念慮。ふと気を抜くとそれに襲われる。生きていることも生きていくこともよくわからなくなる。

 

死ぬまでにやりたいことリストがもう気づいたらそんなにたくさんない事に気づく。先に書いた昔のことをよく思い出したり、後悔したりするってたぶんもっと晩年のステージと思うんだけど、どうも暗いのだ。

 

暗いけど、割と社会生活は明るく生きているので、その本心とのギャップにたまに自分でもびっくりするくらい疲れているんだ。大人になるとは理性的に生きられるようになること。それでも、蓋をして繕って、正解を演じて、大喜利みたいにスマートな応答を努める人生がこれからもずっと続くと思うと、本当にもういつ終わりでもよいと感じるんだ。

 

家族はすきじゃない。たぶん兄くらいしか家族って感じはしていない。そんな家族と過ごさなきゃいけない年末年始は憂鬱。協調性を発揮しないとまたどこか折に触れて嫌な目に合う。いろんな手土産を下げた人たちが足速に歩く駅前を見ていると、どうも気が滅入る。いつからか、大学生くらいからか年の瀬がすごい苦手になった。中途半端なバイト先は馬鹿みたいに忙しくて、否応なく感じる年末感が。

 

来年はなんか、生きていてよかったなって思える瞬間があるといいんだ。今年はよく頑張ったし今年もやっぱり辛かった。どこまで自分を成長させれば、誰かと生きても捨てられたり裏切られないで済む人生になるんだろうか。あるいはこの先もずっとひとりで生きるんだろうか。そういう為にちゃんと稼げる仕事に就いたんだけどね。なんかほんとさ。

段々なんも言えなくなる

最近仲のいい友達ですら、気を遣ったり本当に話したいことが話せなかったりして、別れた後に後悔する。ああ言えなかったなぁ、って。今やすっかり、週に欠かさず聴くラジオ番組が8番組はあって、週に8時間ラジオを聞く様になってから、その話の上手な芸能界の人やアナウンサーにやたらと憧れを持つ様になって、本当に言いたいことや考えていることを話すというよりは、会話のキャッチボールがいかにうまくできるかの実践編みたいになってしまってるところがある。(前まではひとりで飲み屋に行くのでこれを練習してたけど)相手の立場や状況に対してネガティブなリアクションをしたり、角の立つ言い方をしたりは、昔からしない(自分がされて嫌だから)タイプだけど、以前よりも一層、なんというか相手に対しての配慮と労りとエールみたいな感じになってしまっては、なんかいかほど綺麗に返し奉らんと欲す、みたいなスタイルで後から結構自分に対して残念な気持ちになったりしている。ただ、ひとつ言えるのは、コロナも含めての「このご時世」では、もうただ生きてるだけでえらいみたいな感じだし、ほんと全体的に3年前よりもエネルギーがみんな低いというのか、ほんと元気で調子よく行っている人の方が稀な気がする。(そういうの、見てすらいられないくらいエネルギー値落ちてるのかな)仕事の他になにか活動してる人はもっとえらい。もうやってるだけで立派みたいな。きっともう少し上の世代からは、きっとレベルも活動量も低いなぁと思われているんだろう、何慣れあっているんだよって思われているんだろうな、と思う。そんなことはわかっている。そして少し下の世代のやり方の気持ち悪さも感じている。でも時代に適応してると言ったらそうなんだ。きっと。

 

本心以外のことも随分上手に話せる様になったし、ポジティブな解釈を努める様になった。自分の価値観だけじゃなくて、相手の価値観を認めるようになった。それをきちんと言語化して伝える。それでそんな気になる。何か発信している人に向かって面と向かって否定することができなくなった、自分もそれを喰らってしまったら、正直受け止めて頑張れるかどうかよくわからないから。(否、嘘でもいいから褒めて欲しい、って思っている時の方が多い。もう体調が)否定はいっぱい受けて育ってきた、体育会系な社会も、人間が浴びせられるような言葉ではない罵詈雑言も、いっぱい受けてきた。昔はそれに対して、悔しい、負けたくない、プライドが許せない、みたいな気持ちが湧いていたけれど、最近そういった気持ちにすらならなくなった。嫌だなぁって、配慮のない言葉にはなんだかとても「萎える」様になった。不快感を感じる。そして萎える。え、だって伝え方が9割というか、それがその歳になってもわからないのか...と。きちんと教えてくれ、きちんと言語で伝えてくれ。きちんとコミュニケーションをとってくれ。わかって欲しいだなんて甘えないで欲しい、解られるように伝えてくれ。

 


ここまで他人に対して配慮、配慮ってなっている人間も、きっと一般ではないんだなって思うし正解ではないんだと思うけど、なんだか癖になってしまった。本当の自分を出すのが怖いんじゃなくて、その返り討ちにあった時に自分のエネルギーが下げられても奮起できる程のエネルギーが残っていないんだ。仮に返り討ちに合わなかったとしても、周りだってそんな余裕のある状況ではないんだろうから、キツいこと言ったらそれはそれで後悔するんだろう。人と付き合ったりパートナーがいたりする人はもう少しそんな気にせず生きられるのかもしれないけど。結局落ち込んだ時だって苦しい時だって全部ひとりで解決しなくちゃならないし、友達に頼るのもまた申し訳ないなって気を遣うし、常時少ない残高で、まあまあ普通の精神状態で生きていくには、ある程度の保守と自衛の線を張っておかないと、生活が回らなくなる。また希死念慮の沼に堕ちるんだ。

 


きちんと向き合ってやるべきことに集中しなくちゃいけないんだろう。手ごたえや反応が悪くてもとにかくやり続けなければ何にもなれないんだろう、そう思うけど。

 


くどかんさんの番組で、絵描きの人の愚痴で、映画や音楽と同じ様に、絵もつまらないものにはつまらないって言って欲しいって言う愚痴があって、ほんとにそう思った。なぜだか絵だとわかる・わからないみたいな、感じになって、今回のはつまらなかった、よくなかったって感想がもらえることが少ない。(これもまた、陰では言われているのかもだけど)まぁ、今の時代は、いいと思えないものはミュートとかスルーとかだよね。いじめとかも減ってるんじゃないかな。いじめる体力すらないというか。

 


好きじゃないとかつまらないとか、そういうこともハッキリ言えた時代にもう少し戻りたいというか。人間関係を円滑に進める為の努力は、大人になる上で不可欠なものと思う反面、つまらない人間になったら作るものもつまらなくなっていくのだと思う。

 


難しいけどな、ひとりで悶々として、割とやっぱりストレスが作品になる。

なんで今なのに過去形なの

最近は生きていることがずっとふわふわしている。最近っていうのは、どこからが最近なのかわからないけれど、生きている実感がずっとふわふわしている。自分で決めて、外に絵を出すこと以外に、自分の主軸になるような意識の持ち方をできなくて、それなのにもう2ヶ月くらいまともに作品も作っていない。いつしか、絵が描けない状況がずっと続くとか、憂鬱気分がずっと続くのは甘えだって、責められて、無理して描いた2匹のフラミンゴの絵があるんだけど、これすごく嫌いなんである。結構時間をかけて描き込んだのに、あまりに嫌いな絵で、それから無理をして作品を作ろうとするのをやめた。自分が自分の嫌いな絵を生成することは無くなったけど、エンジンがかからない時の対処法は、以来他の何かで気分を逸らすしか無くて、延々と映画やドラマを観ている。あとは寝るとか。

 


普段会わない誰かに会って話すと、家に帰って必ずモヤモヤした気分になる。大学生の時は、これがもっと360°の視界で毎日だったんだろうと思うとだいぶご愁傷様である。なんとなくフィーリングが合わないとかじゃなく、単純に傷つくことがずっと増えた。褒めてもらえないこと、認めてもらえないこと、労ってもらえないこと、配慮のない発言や態度に、昔よりずっと傷つくようになった。辛いことや大変な事を乗り越えても、なんかそんな言われをしなくちゃならないものか、ってもう逆にポカンとしてしまうような。ラジオの聴きすぎなのか。あたり前に話す相手には敬意があり配慮があり、相槌の打ち方とか受け取り方とかそう言った品のあるコミュニケーションが。そういった大人としてのマナーを同世代に求める方がおかしいのか。

 


この人と付き合えたらよかったなぁとか、ふと思う瞬間があるけど、じゃあそれをいつからはじめたらよかったのかって、後悔するタイミングすら無いとしたら、その気持ちはなんだったんだろう。高校時代の人に会うと、みんな端から優秀で全うで、本当に自分がその高校を卒業をしてるのかすら怪しくなるくらいで。どこで間違えたんだろうって、思う。でもそうやって、過去を思い出すことが最近は辛くて、過去の嫌な思い出を昔よりもずっと受け止められなくなった。自分事なのに、時間が経って、他人事みたいに感じるようになったのか。恋愛映画を観ると、本当に自分の人生なんて酷いもので、幸せなシーンのある恋愛映画はほとんど好きになれなくて、百円の恋、や百万円と害虫女、くらいでやっと心安らかに観られる。まじで人生そんなもん、それ以外知らない方が、ある種生きていられる気すらする。

 


ずっと気持ちが疲れている。ずっと不安に溢れている。今年は本当に、孤独だなぁ、という事を感じることが増えた。誰かに助けてもらおうったって、まず余裕がある人で、まず自分を大事に思ってくれている人で、あとは、その人に理解出来るような内容で落ち込んでいないと、人は他人に助けてもらえなくなっていくんだな、ということがわかった。苦しくたって、病気になったって、思うように動けなくなったって、ずっとひとりぼっち。ずっとひとりで抱える。大人になると、傷ついたって言えなくなる。傷ついたって言っても、わかってもらえなくなる。誰かがそう言ってた。誰かにかけられたい言葉も、結局自分でそれをわかるしかなくて、ずっとひとり。でも、孤独に対峙して気づくのは、孤独には底があるってことで、意外とそれは中庸なのだ。それより辛いのは、聞いてくれる人がいてもわかってもらえないことや、助けてもらえないことや、返って攻撃されること。そっちの方が、底のない地獄なのかもしれない。周りにたくさん人がいても、理解してくれる人や寄り添ってくれる人がひとりもいなかったら、孤独は一層助長されるのだから。

 


ひとりで生きる人生は静かで平和だ。

 


19歳の時の日記で、1年浪人して第一志望の大学に落ちた時に、「世の中は厳しいな。いつだって神様は容赦ない。」って一文書かれていた。いつだって神様は容赦ない。

 


子宮頚がん検診でひっかかった。再検査をして、ダメだったら精密検査をして、そしたらガンなのかあるいは進行しているのかがわかるみたい。まだガンだと決まったわけじゃないし、言われた時全然動揺もしなかったけど、ガンだったら嫌だな。子宮頚がん、と言われて、あーあと思ったのは、17歳の時に部活の顧問に騙されて、3回打たなくちゃいけない子宮頚がんワクチンを、確か1回か2回しか打っていないんだ。彼女が陰謀論者だったのは、今でこそわかったけど、素直な高校生は奇しくも信じてしまった訳で、そのツケが10年後に来たのかもしれないな、とか。

 


なんだか泣きたいことが多いなぁ。どうして人と会うたびに、こんなネガティブな感情ばかり拾うようになったのか。自分でもよくわからないけど、ラジオみたいな社会の上の方の人たちの話ばかり聞いているのがよくなかったのか。

 


生きるとはなんなのか。生きてる必要があるのか。いつ終わっても全然後悔ないとは思う。